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幼児教育の目的

人が考えることは、誰にも止めることはできませんね。
それがどんなに邪悪な考えであっても、防ぎようはありません。
それだけに、どんな感情や思いに囚われるのかが、人としてどう生きるかに
大きな影響を与えます。

浮かんでくる感情や思いや考えのどれを選択し、実行に移していくのか?
負の感情をどう処理していくのか?
人は助言はできますが、自分の感情や思いをコントロールできるのは自分だけです。


先に書いた愛憎や利害や自身の尊厳に関わるような、大きな感情や思いや考えが
浮かんだ時は、人は何を指針に判断すればいいのでしょうか?
湧き出る憎悪や嫉妬心、物や人への執着、不安や恐怖心。

例えば、最近あったストーカー殺人。
「俺がこんなに好きなのに俺を避けている! 彼女と俺は釣り合わないのか? 
彼女さえいなければ俺はこんなに苦しまずに済む。 彼女を殺して俺も死んでやる。 
俺を無視した仕返しをしてやる!」
犯人の青年はこんな思いに囚われていきました。

この青年はこんな感情に歯止めをかけることができなかったのです。
どこかで、「いいやこんな考えはよくない!」「こんな風に考えるのは間違っている!」
と自身で歯止めをかけることができたなら・・・


車にはアクセルだけでなくブレーキが必要です。
アクセルは、夢や希望、チャレンジ精神や正義感を高めてくれます。
進むべき時には、思い切りアクセルを踏むこともできます。

でも、もし負の感情が湧いて来た時には、それを打ち消したり、
歯止めをかけてくれるブレーキが必要です。
憎しみや嫉妬心を和らげてくれる、仕返しや復讐したいと言う気持ちを
抑えてくれるブレーキが。

人間の負の感情に対してブレーキの役割をするのが、道徳心や倫理観。
それらはほとんどが幼児期に培われます。
ですから、しつけや幼児教育の目的は、人間にとって一番大切で基礎となる、
思いやりや道徳心や倫理観、社会性や協調性などを含めた人格形成ではないかと
私は思っています。


今、子どもの人格形成に大きな影響を与える幼児教育に携わっている私は、
その責任の大きさに時々身震いします。
子ども達が、将来社会に出た時に、どんな試練にも負けずに、どんな状況の中でも、
いつも幸せだと感じながら生きていけるように、何を教え何を伝えていけばいいのか、
人間や人生についてこうして自問自答を繰り返しています。

日本では幼児教育がとても軽んじられているような気がしています。
私は幼児教育が一番重要だと思っているのですけど。
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人生って? 5  -無意識の選択-

人間が自分を創造していく時には、無限の自由が与えられています。

もちろん、肉体的には制限だらけです。
生まれた環境も変えられないし、持って生まれた肉体的な特徴も
どうしようもありません。
自分に与えられた能力にも限界があります。
けれど、頭の中で考えることには制限がありません。 

何かの出来事が起こった時、それについてどう考えるかはまったくの自由。
誰にも制限されないし、誰にも止められません。
強い自分でありたいとか、やさしい自分でありたいとか、
どう考えるかを、意識するしないに関わらず、自分で選択することになるのです。
それが人間に与えられている究極の自由だと私は思います。

そしてさらに、頭の中で選択した思考を何らかの行動に移すかどうかも
選択することになります。 
日常生活の中で、私達はほとんど無意識に小さな選択を繰り返して行動しています。
ご飯にするかパンにするか、赤の服にするか青にするか、今出かけるか後にするか・・・
ほとんどは、人に迷惑をかけることも、問題を起こすこともない些細な選択です。

ところが、人間の社会で多くの人と関わり始めると、時として、愛憎や、利害や、
自分の尊厳にかかわるような重大な出来事が起こります。
最近のストーカー事件のように、自分の愛が受け入れられないとか、
同じポジションを狙うライバルがいるとか、騙されて大きな損害を被るとか、様々です。

そういう出来事が起こった時、人はどう考えるでしょう?
思考には制限がかからないから、「あいつさえいなければ・・・」とか
「この恨みをはらしてやる!」などと考えることもできます。
恐らく人間なら誰しも、このような考えを持ったことがあると思います。
こういう考えが浮かぶことを止めることは、誰にもできません。

極端に言えば、気に喰わないから殺してしまおうと考えて、
それを実行に移すことも可能です。
世の中には実際に、自身に歯止めをかけられずに犯罪者になってしまう人もいますね。
また、殺すところまではいかなくても、大人の社会でも子どもの社会でも
蔓延しているいじめは、気に入らない人間を排除しようという思考が
生み出す行動ではないでしょうか?


逆だと思われるかもしれませんが、意識してやっている人間は
救いようがあると思います。
自分で自覚して選択しているからです。 選択を変えることができます。
でも、人が無意識にしていることを変えさせるのは至難の業です。
一番怖いのは無意識に間違った選択をしている場合なのです。
言い方を変えれば、モラルの欠如、罪の意識がまったくないと言う場合です。
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人生って? 4  -自己の創造-

それぞれに与えられた人生のテーマ。 それを探る長い旅。

人間として肉体を持った魂は、いろいろな出来事に遭遇します。
というより、いろいろな出来事が起こらなければ何も経験できないのです。
経験しなければ学べないし気付けない。
肉体を持つ理由は、経験することにあるのかもしれません。

逆に形を持たない魂というものの世界を想像してみましょう。
肉体がなければ、人から受ける優しさや、試練に耐える辛さや、
愛する者を失う悲しみを経験することができるでしょうか?
肉体がなければ、それはすべて想像にすぎません。
いえ、想像すらできないかもしれませんね。


人間はいろいろな出来事を通じて自分というものを創造していきます。
起こる出来事に対して、自分はこう思う。 自分はこちらを選ぶ。 自分はこうする。
意識していなくても、行動の全てに、自分の選択が関わってきます。
例えば、今日はどの服を着ようか、お昼ご飯は何にしようか、帰りに飲んで帰ろうか
まっすぐ帰ろうか、テレビを見ようか、どの番組を見ようか・・・
誰でも無意識に選択しています。

一方、人生に関わるような重大な選択もあります。
どの学校を選ぶか、どの会社を受けるか、誰と結婚するか、どこに住むか、
転職するか、起業するか・・・
一つの選択で、その後の人生がまったく変わってしまいます。

そういう選択を繰り返すことで、自分は何者か、自分はどういう人間なのか、
自分はどうありたいのかという、言わば自己を創造していく作業をしているのです。
そしてそれが、他人と自分を区別する物差しにもなります。 

世界にどれだけの人間がいようと、今の自分とまったく同じ人間はいないし、
未来永劫二度と現れることもありません。
どれだけ、輪廻転生を繰り返していても、今回のこの人生、今の自分は一回きりです。

その一回きりの環境や経験から、自分を創造していく過程が生きるということであり
人生というもの。
秒刻みの選択から、何年もの時間をかけての選択まで、人間は日々変化し、
新たな自分を創りだしていきます。
その中から人はそれぞれ、今回の人生のテーマに関する何かを学び、
何かに気付くことになるのではないかと思います。

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人生って? 3  -人生のテーマ- 

相対的な人間の社会では、差別ではなく区別は生まれます。
他の人と比べることでしか自分を特定できないのですから、仕方ありませんね。

男と女も違いますし、国が違えば、政治や経済、宗教も違います。
アメリカに生まれるか、アフリカに生まれるかでは、当然のことながら
まったく違う人生になります。 
同じ国に生まれても、その地域によって、気候や風習が違います。
その家庭によって、家族関係や経済的余裕度、抱えている問題も違います。

私は何故、日本に生まれたのか? 
何故、この両親の下に生まれたのか?

人生を一回きりと考えたら、世の中不公平だと思いませんか?
有り余る才能を与えられている人がいます。有り余る富を持つ家庭に
生まれる人もいます。
片や、雨露をしのぐ家さえない人がいます。
食べるものがなくて飢え死にする人もいるのですから。
人生が一回きりなら、神様はあまりにも不公平です。

でももし、魂の存在や輪廻転生を信じれば、まったく別の捉え方ができます。
『今回のこの人生』 という考え方です。
これまできっといろいろな国で生まれ、いろいろな環境の下で、
様々な人生を送ってきたのでしょう。
男であったり女であったり、黒人であったり白人であったり、
豊かな家庭であったり貧しい家庭であったり、善人であったり悪人であったり、
もしかしたら、犯罪者だったりもして・・・
そこから学んだこと、気付いたことを魂に記憶しながら
人生という旅を続けているのだと。

そう考えると、今回この環境に、この状況で生まれる、という設定を選んだ理由や
テーマがあり、今回の人生を生きる意味があるのです。
この環境に生まれたことで学び、気付く何かがあるのです。

ところが人生のテーマとその答えはそう簡単にはわかりません。
たぶん気付くのは死ぬ時ではないかと私は思っています。
言い方を変えれば、答えに気付いてしまったら、
肉体を持って生きている理由がなくなるからです。





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人生って? 2  -人間の社会-

私の実家は神道です。ですから仏壇ではなく神棚がありました。
神道は「八百万の神」と言うように全ての物に神が宿るという考えで、
言ってみれば自然崇拝。宗教としてはとてもおおらかです。
私自身は特定の宗教を持っていませんし、どんな宗教団体にも属していません。 
仕事に宗教を持ち込むつもりもありません。

けれど、宗教心は大切だと思いますし、魂や生まれ変わり(輪廻転生)を
信じるか信じないかで、人間や人生に対する考え方が根本的に違ってきますよね。 
この人生は一回きりのもので、二度と生まれてくることはないと考えれば、
生きている間に好きなことをしよう、やりたい放題しようという考えもあるでしょう。
行きたい所に行って、おいしいものを食べて、自分の好きなように生きたい。
そう考えても無理はありません。


逆に、魂の存在や輪廻転生を信じるとすれば、人生とは何か?という疑問も
沸いてきます。 
魂とは何で、人間は何のために生まれてきたのか?
何のために生きているのか? 何を目的として生きるのか?
 

人間は何のために生まれてきたのか、何のために生きるのかを考えるためには、
人間の社会がどうなっているのかを見なければなりませんね。

人間の社会は、相対的なものです。
分かりやすく言えば、みんな背丈がバラバラだから、背の高い人や低い人が存在します。 
もしみんなが同じ背丈なら、背の高い人も低い人も存在しません。 
太っている人、痩せている人もしかり。 きれいな人、そうでない人。 
頭のいい人、悪い人。 歌の上手い人、下手な人。 スポーツの得意な人、苦手な人。 
強い人、弱い人。 健康な人、病気の人。
世に中の人みんなが優しければ、優しい人も存在しません。 
悪人がいなければ、善人も存在できないのです。 なんだか禅問答みたいですけれど。

もし、人間がみんなピンポン玉のように、同じ色、同じ形であれば、
自分というものが存在できるのでしょうか?
自分と同じ姿かたちで、同じように考えるクローン人間ばかりの世界を想像すると、
ちょっと気持ち悪いですけど、私という人間を他の人とどう区別できるのでしょう?
自分と言うものの存在意義すらなくなってしまうのではないかしら?

もし、みんなが何もかも同じなら、人間の社会は必要ないでしょうね。 
そうじゃないということに意味があるのでしょう。


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人生って? 1  -魂の存在-

私は超がつくほどの楽天家。
物事何でもいい方に考える得な?性格。
父からはいつも「お人よし過ぎる」と心配されていました。
そんな性格ゆえに、学生時代には人生を深刻に考えたこともありません。
でも、どういうわけか、魂の存在とか、人は何度も生まれ変わる(輪廻転生)
なんてことは信じていたのです。

私が中学生の頃、アメリカでは黒人差別が大きな社会問題になっていました。
当時のアメリカは、日本人からすれば夢の国だったのですが、それは白人の世界のこと。
その陰には、奴隷として酷使されていた黒人たちがいたのです。
そんな現実を漏れ聞く度に、私は 「差別はよくない! 絶対だめ!」
となぜか強く思ったのです。
 
その頃は街中で外国人を見かけることなどほとんどなく、私の周りにももちろん、
黒人どころか外国人もいませんでした。
国内にも様々な出来事があったにも関わらず、どうしてまったく自分に関係のない
遠い世界のこと、見たこともない人達のことに、そんなに強く自分が反応するのか、
不思議でした。
 
その時、何となく私は、以前黒人として生まれたことがあるのではないかしら? 
もしくは、黒人を差別して、そのことを悔いて死んでいったことがあるのでは
ないかしら? 
中学生ながら、そんなことを思ったのです。


その後もいろいろな経験をする中で、ある出来事に対して自分がどうしてそんな風に
考えるのか、どうしてそう思うのか不思議に思うことが度々ありました。 
私の思想や発想の元はなんだろう? 

今までの短い人生では絶対学んでいないと思うことも知っていたり、
容易に想像できたり。
私だけではなく、他の人達を見てもそう思うことがありました。 
これは、やはり何度も生まれ変わって、いろいろな人生を経験し、
その時学び気付いた数々の知恵や知識が魂に刻み込まれているのではないか・・・
当然それらの記憶は一人一人違うから、違う物事に反応する。


漠然と考えていた魂の存在を確信したのは、実は実際に臨死体験をした人の話しを
聞く機会があったからでした。
私が 『関西エグゼクティブウーマンの会』 という働く女性の会を主宰していた時に
講師として来て頂いた高木善之さん。

夫と同じ大阪大学の出身で、同じく技術畑。大企業に勤めていた方で、
うそをつく必要などまったくない立場の人でした。 
交通事故で死の淵をさまよい、その時臨死体験をしたことがきっかけで、
環境問題に取り組みはじめ、NPO『地球村』を設立されました。
「永続可能で平和な社会」を目指して書籍の出版や日本全国で講演活動を
行っておられます。
今ではいたるところで聞く言葉ですが、私の記憶では、最初に「永続可能な社会」
と言いだされたのは高木さんだったのではないかと思います。


私が今の仕事である幼児教育を考える時、一番根底にあるのは、
大袈裟なようですけど、「人は何のために生きるのか」ということです。
その答えがあって初めて、教育の目的がはっきりし、子供達に何を教えればいいのか、
何を伝えればいいのか、を考えることができると思うからです。


ちょっと硬い話になりますが、今回からシリーズで人生についての考えを
書いていこうと思います。
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年収が高くなる?子供のしつけ方


ネットのニューストピックスで面白い記事を見つけましたので、ご紹介します。

私の地元神戸大学の先生の研究発表です。


「『嘘をついてはいけない』としつけられた子供は、しつけられていない子供と
比べると、将来、大卒以上の高学歴になるケースが明らかに多く、
年収も50万円以上高くなる傾向があります」

こう語るのは、神戸大学社会科学系教育研究府の西村和雄特命教授。
西村教授は、ゆとり教育を批判した著書や、教育に関するユニークな
調査発表でも有名だ。
今回、その西村教授のほか3人による共同調査『基本的モラルと社会的成功』が
発表された。調査の結果、8つのうち4つのしつけを受けた人が、
高学歴になる率が高いことが明らかになった。
また年収も、4つのしつけをすべて受けたケースは、ひとつも受けていないケースよりも
80万円も高かったのだ。

その4つのしつけとは「嘘をついてはいけない」「他人に親切にする」「ルールを守る」
「勉強をする」というもの。この調査で興味深いのは、周囲の大人からしつけられた
「記憶」があるかどうかで統計が取られている点。
つまり、これらのしつけを実践、理解できたかが問題ではなく、言われたことを
覚えていることが大事だということだ。

「未就学、小学生くらいの幼少期ならば、簡単なしつけの言葉を繰り返し言い聞かせて
『記憶』させることで、自然とモラルを身に付けさせることができるんです。
それが結果的に、我慢強さや協調性、規則正しい生活習慣や学習習慣に結びつき、
将来的に企業の求める人材に育つのだと考えられます」

それなら少しでも早いうちに、わが子のしつけを……と考えたくなるが、
注意したいのはひとつのしつけに特化しないことだ。偏った考えや、
利己的な性格を持たせないようにするには、前出の4つのしつけをまんべんなく
教えるようにするのが肝心だという。

親の中には「もうそんなしつけやっている」という人も多いはず。
しかし、当たり前すぎて、あえて言っていないということもある。

「言わなくてもわかると思うかもしれませんが、幼い子どもは、
言われないとわかりません。
何度も口にして、記憶させることが大事です。昔はまわりの大人が言ってくれましたが、
今、子供の近くには親しかいません。親が言わなくなれば、誰からも聞かされずに
育ってしまうのですから、お父さんやお母さんの役割は大きくなっているといえます」





私がやっているリリパット・リトル・キンダーという幼稚園型スクールは、
しつけやマナーを大切にするということをポリシーにしています。

最近は幼稚園や保育所で、喧嘩もさせない、問題行動があっても叱らない、
間違っていても注意しない、ということをよく聞きます。

親からの苦情を恐れて、またそれがその子の個性だと大きな勘違いをして、
本来教育者がすべき教育を放棄しているように思えてなりません。
子供達をただ見ているだけなら、学生アルバイトのベビーシッターで十分です。

親や教育者、そして大人の役割は、子ども達に社会で生きていくための知恵や
ルールを教えること。特に幼児期は、それが最重要課題です。

家庭では親がしつけをしなければなりませんが、家庭の中で教えられることは
限られています。
一人っ子ならおもちゃの取り合いもありませんし、なおさらです。
ですから、幼稚園や保育所など集団で過ごす場所が必要なのです。

集団の中で起こる様々な出来事を通じて、今どうしなければならないか、
どうすることが社会のルールなのか、どう解決すればいいのか、
と言うことを子ども達は学んでいくのです。

それには、大人の知恵や的確なアドバイスが不可欠です。
教育者はそのためにいるのだと思います。

子ども達が言うことを聞くかどうかは、それぞれの子供の持っている特性が
違いますから、一概に言えません。
同じことを注意しても一度で理解できて実践できる子もいれば、
50回言ってもできない子もいます。

何度言ってもできない場合は、それがその子の弱点でもあるわけですから、
余計何度でも言い続けなければならないのです。

諦めずに言い続けること。それが成功するしつけの極意です。

しつけたことの結果は、数値や目に見える形では現れませんが、
年収が高くなるかどうかは別としても、社会に受け入れられやすいと
考えると、今回の西村先生の研究のようなものがあれば、
親の励みになるかもしれませんね。

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1年祭

父と母は恋愛結婚ですが、偶然にも両方とも先祖は神主だったらしく、実家は神道です。
ですから、1周忌とは言わず、1年祭と言います。
父の命日は今日ですが、1年祭を先日妹夫婦とささやかに行いました。

87歳という高齢で、十分覚悟していたつもりでも、その悲しみは想像以上でした。
でも、やっぱり時が癒してくれるのです。
1年というのは、気持ちの上でも一つの区切りになります。

1年前まで毎日のように書いていたブログが、父の死後まったく書けなくなっていましたが、またこうして書けるようになりました。

今日は父の写真に言いました。

「もうふっ切るからね」
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父に会った最後の日

父は昨年10月17日午前6時37分に亡くなりましたが、
病院から連絡が来た時は既に亡くなっていて、車で20分程の距離に
住んでいた妹でさえ、父の死に目には会えませんでした。
私が生きている父に会ったのは、去年の今日、
14日にお見舞いに行った時が最後でした。

父は9月19日に胃の調子が悪いと病院に行って即入院。
21日に胃カメラで胃がんが発覚。その後も検査漬けでしたが、
28日にPET検査に付き添った時は、病人とは思えないほど元気にしていました。

でも、抗がん剤治療を受けて2週間ほどで、父はみるみる病人になってしまい、
最後に会った時は、ほとんど話しもできないような、辛そうな状態でした。

それでも父の復活を信じて疑わず帰路についた私ですが、父は逝ってしまいました。
人に迷惑をかけることをよしとしない父らしい、あっけない死でした。

父が亡くなってからこれまでずっと、
「去年の今頃は生きていたのになあ・・・」
と思ってきましたが、そう思えるのも、もうほんの少しになりました。

最近ようやく、父の写真を見ても泣かなくなっていましたが、
今日はやっぱり泣いてしまいました。
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スッチーだった頃 21

21.終わりに

マザーユウキが飛んでいた1970年代は、飛行機の墜落事故とハイジャックという
航空史上最悪の出来事と、大型機がどんどん導入されJALパックなど海外旅行が
身近なものになった、航空史上もっとも華やかな出来事が交錯する不思議な、
そしてある意味激動の時代だったと言えるでしょう。

私の人生の中で、日本航空という日本のトップクラスの企業に入社できたことは、
その後の人生を大きく左右する出来事でした。
今は事情が許さないでしょうが、当時半年もの訓練期間を与えてもらえたことに、
今でもとても感謝しています。
その後経営者になったマザーユウキは、それがいかにありがたいことか
痛感することになりましたから。


私が、どこへ行っても、どんな場所でも、どんな相手とも物おじせずに振る舞えるのは、
日本航空で、社会人としてのしっかりとした基礎を作ってもらったからです。
今でも日本航空OGとしての誇りを持っています。

やがて、英語による幼児教育という今の仕事に行きつくまで、まだまだ紆余曲折が
ありますが、この時の経験がきっかけになっていると言っても過言ではありません。


半官半民でスタートした日本航空は、その後厳しい道をたどることになります。
日本航空だけではなくて、当時世界最大の航空会社だったパンナム
(パンアメリカン航空)も消滅してしまいました。
まさしく栄枯盛衰、時代は変わりました。
でも、マザーユウキの中の日本航空は、今でも鶴丸が燦然と輝く航空会社なのです。



日本航空時代のことをこんなに詳しく書いたのは初めてでしたが、書いているうちに、
引き出しの奥の方に引っ込んでいた記憶がどんどん顔を出し、
私自身懐かしく思い出に浸りながらペンを進めることができました。

個人的な古い経験談をお読みいただいてありがとうございました。
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スッチーだった頃 20

20.さらば日航

スチュワーデスになると決めて、短大に進んだマザーユウキは、
20歳で家を出て日本航空に入社しました。
日本航空の入社試験は、三次試験までありましたが、思い返せば、
合格通知はなんと電報でした。

一次試験に合格すると、電報で二次試験の日程を知らせてきました。
二次試験で合格すると三次試験の日程が。
そして、「まだか、まだか」とドキドキしながら待った三次試験の結果。
飛びあがって喜んだことを思い出します。

当時クルーは東京に住むことが条件でしたから、最初に書いたように
とりあえず蒲田の寮に入ったのです。
東京へ行く時、泣きじゃくっていた妹の姿は、今でも目に浮かびます。
マザーユウキも、飛行機事故に遭うなんてことがなくても、
もう家に帰ることはないだろう。
巣立ちする鳥のように、後戻りできない広い世界に飛び出していく気分でした。

そんなマザーユウキですが、事故やハイジャックが続き、さらに、マザーユウキが
どんどん痩せていったことで両親を心配させていることを、もはや無視することは
できなくなっていました。

図太い神経で、訓練中に4kgも太ったマザーユウキですが、
飛び始めてから2年足らずで、8kgも痩せてしまったのです。
機内では食べてすぐ動くことになりますし、不規則な生活や時差などが結構堪えます。
身体が丈夫で体力的にこの仕事が合えば、ずっと続けていたいと思える仕事でしたが、
もともとバスに乗ってもすぐに酔っていたほど、乗物に弱かったマザーユウキ。
体重が10kg減った時、退職を決意しました。


日本航空で、社会人としてのしっかりした基礎を築いてもらえたこと、
そして若くして世界を飛び回るという、普通ではできない経験をさせてもらったこと。
日本航空を離れても、この経験をぜひ活かしたいという強い思いを抱きながら、
最後のフライトを終えました。

思い返してもマザーユウキの日本航空での思い出は、楽しいことばかりでした。
ただ一つ、モスクワでの事故を除いては・・・
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スッチーだった頃 19

19.両親の不安

当時の日本航空の客室乗務員は、三つのセクターに分かれて乗務していました。
主に南周りヨーロッパを飛ぶセクター、北周りヨーロッパを飛ぶセクター、
そして主に東南アジアを飛ぶセクターで、1年毎に代わる仕組みになっていました。
ですから、言ってみれば3年働けば、日本航空のルートを全部回れるわけです。

1972年に立て続けに起こった日航機事故。
先のニューデリーの事故は、セクターが違っていましたので、
知ったクルーはいませんでした。

その後起こったモスクワの事故。
マザーユウキはモスクワ便に乗務したことはありませんが、モスクワ便は、
フライト時間が9時間以上になるので特殊な便として、もしかしたら、
各セクターからピックアップされたクルーが乗務していたかもしれません。
このあたりはよく覚えていません。

そんなモスクワ便の事故機に、1000人以上いたクルーの中で、
マザーユウキが3カ月も一緒にフライトした先輩が乗務していた・・・
このことは、マザーユウキのみならず、両親にもショックを与えました。

マザーユウキの両親は、スチュワーデスになりたいと言った時も、
表立って反対はしませんでした。
もともと子供の意思を尊重してくれる親でしたし、言っても無駄だと
わかっていたのでしょう。

でも、特に心配症の父は、小さな戦闘機ならまだしも、あんな大きな鉄の塊が
どうして空を飛べるんだ、飛行機は落ちたら最後絶対生きては帰れないぞ、
という不安はずっと持っていたようでした。
そんな不安が現実のものとなり、いつ娘の身に起こるかもしれないという危惧は、
両親の中でどんどん膨らんでいったようでした。

それでも、もちろん世界中で飛んでいる飛行機の便数から言うと、
自動車よりはるかに安全と言えます。
でも、その後も頻発するハイジャックなど両親にとっては心配の種がつきず、
心の休まらない日が続いたのです。
さらに、両親を心配させたのは、会うごとに、マザーユウキが痩せていったことでした。

ある日実家に電話したマザーユウキは、過度のストレスから、父が激しい腹痛を起こし
救急車で病院に運ばれたと知らされました。

マザーユウキの中である思いが芽生え始めました。
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スッチーだった頃 18

18.安全神話が崩れた日

忘れもしません。
1972年6月、アムステルダムのホテルに滞在中、
チーフパーサーから緊急招集がかかりました。

そんなことは滅多にありませんから、嫌な予感。
夜でしたから、みんな部屋にいて、すぐに全員が
チーフパーサーの部屋に集まりました。

そこで聞かされたのは

「日航機が事故を起こしたらしい」

というものでした。
みんなに緊張が走り、部屋の空気がピンと張りつめたのがわかりました。
「今のところわかっているのは、ニューデリーでの事故ということ」

恐らく、この時、世界中にいた日航の社員は、
同じ気持ちを味わったことでしょう。
世界一安全と言われた、日本航空の安全神話が崩れた日でした。

マザーユウキ達も、緊張と不安を抱えアムステルダムから帰国。
フィックスクルーの先輩スチュワーデスMさん、Tさんと
同期Fさんと一緒に、合同の告別式に参列しました。

「こんなの二度と嫌だね」
と先輩達と話しながら別れました。
3カ月間のフィックスが終了し、この先輩達とまた一緒に
フライトできる日を楽しみにしていました。


それから5カ月経った11月のこと。
メキシコのホテルで、またパーサーからの緊急招集。
ドキドキしながら、暗いホテルの一室で、聞かされたのはモスクワでの事故。

「わかっているのは、クルーの中にDさん、Sさん、そして
Tさんと言う名前の人がいるらしい」

DさんもSさんもマザーユウキには心当たりがありませんでした。
でも、Tさんは・・・
その時は下の名前も分からず、男性か女性かもわかりませんでしたので、
ただただあのTさんではありませんようにと祈るしかありませんでした。


日本に帰国後、新聞で知った事故の詳細。
Tさんは、ジャンボのフィックスクルーとして3カ月間一緒にフライトした
あの先輩スチュワーデス。
アムステルダムやハンブルグで一緒に遊んだ先輩。ひょうきんで楽しくやさしい先輩。

Tさんは一人っ子。しかもTさんの乗務した便が、日本に到着するはずだった日は、
Tさんのお誕生日でした。
マザーユウキのアルバムに残るTさんの笑顔。
若くしてあの世へ行ってしまったTさん。


飛行機事故は何故か続くのです。

漠然とした覚悟が、現実のものとして、マザーユウキに迫ってきた出来事でした。
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スッチーだった頃 17

17.ハイジャック

これまで楽しい思い出を語ってきましたが、私にとっても日本航空にとっても
避けては通れない大きな出来事もあります。

マザーユウキが入社する前の年1970年に,羽田から福岡に向かっていた日航機が
ハイジャックされた「よど号ハイジャック事件」がありました。
飛行機を乗っ取るという映画のような事件が、日本で実際に起こり、
この事件を機に、その後数多くのハイジャック事件が起こることになりました。

当時は、東京オリンピック、千里での万博(学生時代マザーユウキは万博で
アルバイトをしました)など日本の経済成長が著しい時代でしたが、
政治的には不安定で、この「よど号ハイジャック事件」をはじめ、
「あさま山荘事件」など、犯罪史上に残る大きな事件が起こっていました。
どちらもテレビでも実況中継されましたから、年配の方なら
記憶に残っていることでしょう。

実はマザーユウキが入社した1971年から退社するまでの間、
ハイジャック事件は立て続けに起こっています。
1972年11月には、在米日本人による「日本航空351便ハイジャック事件」、
1973年7月には、パリ発アムステルダム・アンカレッジ経由東京行きの
ジャンボ機がハイジャックされました。
これは「ドバイ日航機ハイジャック事件」と呼ばれていますが、
日本赤軍によるものでした。
乗客・乗員は全員無事解放されましたが、この飛行機は犯人によって爆破されました。
マザーユウキは、後に、この便に乗り合わせていたというスチュワーデスと
一緒にフライトをしましたが、
「本当に怖かった。もうダメかと思った」
と話していました。

その後も日本航空では、1974年の「日本航空903便ハイジャック事件」、
1979年の「日本航空112便ハイジャック事件」がありました。
また全日空でも、1970年、71年、74年、75年、77年と
ハイジャック事件が続きました。
全日空では1990年代にもハイジャックがあり、犯人と格闘した機長が殺される
という悲惨なものもありました。
そのほとんどは、政治がらみではなく、個人による犯行でした。

これらの事件の後、空港の手荷物検査が非常に厳しくなったのは、ご承知の通りです。
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スッチーだった頃 16

16.空の上で出会った素敵な天使へ

空の上でのお客様との出会い。私には、忘れられないお客様が一人います。

当時、夜9時頃に出発するアメリカ、サンフランシスコ行きの便がありました。
夜間フライトですから、ほとんどのお客様がお休みになります。
でも、リーディングライトをつけて、ずっと読書をしている外国人男性がいました。
フライト時間も長くなっているのに、一向にお休みになる様子もなく、
起きているのがその人だけになったので、話しかけてみたのです。

「お休みになれませんか?」
そんな質問が最初だったと思います。

「そうですね。明るいと周りに迷惑でしょうか?」
「いいえ、大丈夫です。何を読んでいらっしゃるのですか?」
「百人一首の英訳版です」
「まあ、そんな本があるんですね。日本の文化に興味をお持ちなんですか?」
「ええ、僕は今日本に住んで仕事をしていますから」
「そうですか?ではお里帰りですか?」
「はい、母が危篤との知らせを受けたので」

「まあ、・・・・・」

一瞬言葉を失いました。長いフライトがどれほどもどかしいことでしょう。
本を読むことで、気を紛らわせておられたのです。

ようやくシスコに到着という頃、その人がずっと読んでいた「百人一首の英訳版」を
マザーユウキに下さったのです。
裏表紙には彼の自作の短歌が。そして、
『雲の上で出会った素敵な天使へ  ジョージ・C・マーシャルより』
と書かれていました。


横浜で貿易の仕事をしていると言っていたその人。
もちろんその後二度とお会いすることはありませんでしたが、
親が死ぬかも、死に目に会えないかもという悲しい状況の中で、
マザーユウキが声をかけさせてもらったことで、
少しは気持ちも紛れたのかもしれません。

飛行機に乗っているお客様が、決して楽しい旅行客ばかりではない
と肝に銘じた出来事でした。
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スッチーだった頃 15

15.スタンバイとDH

クルーが出入りするオペレーションセンターには、クルー一人一人に、
メールボックスが用意されています。
そのメールボックスに、毎月月末、翌月のフライトスケジュールが入れられます。
日付が書いてある細長いスリップに、便名が書かれているもので、例えば、
3日~12日のところに  ― F431 CPH ― と書かれていると、
431便コペンハーゲン往復乗務ということ。具体的には 
TYO(東京)-ANC(アンカレッジ)-CPH(コペンハーゲン)-ANC -
TYO というルートです。

フライトから帰ってくると2~5日休みがあります。
長い便に乗務すれば、長い休みになりますし、短い便だと
2日ほどでまた乗務することもあります。
さらに、フライトスケジュールには、便名とH(ホリデー)以外に、
Sの文字が結構あります。
これはスタンバイということ。

フライトには乗務する人数が決まっていますから、誰かが欠勤すると
すぐ変わりのクルーを手配しなければなりません。
人間ですから病気もしますし、怪我もします。
家族や親戚の不幸なんてこともあるわけです。
それで、誰かが欠勤して、いつ呼び出しがかかってもフライトできるように、
スタンバって(待機して)おくわけです。
今のように携帯電話なんてありませんから、自宅に缶詰です。

スタンバイで呼び出される時は、どこへ行くか直前にしか分かりませんから、
私服は冬服も夏服も全部すぐに出せるようにしておきます。
呼び出しで長いフライトが入った時は、当初のスケジュールが
変わってしまうこともあります。
楽しみにしていた便が別の便に変更になってしまうこともありますが、
それはそれで、新たな楽しみにもなります。

それと、たまにスケジュールに DH と書いてあることがあります。
これ何の略だと思います?
実は Dead Head と言って、仕事をしないで飛行機に乗って移動することなんです。
便の関係でクルーが余ることがあったり、海外で欠員が出て、
東京から代替要員として現地に向かう時など、お客様と一緒に客席に座って行きます。
私服で行きますから、お客様にはわかりません、
と言っても雰囲気でクルーとバレバレなんですけど。

それにしても、Dead Head ってねえ。
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スッチーだった頃 14

14.食べて、買って

ステイ先では、ベテランも食事は大抵一緒に出かけました。
一人で食べるのはつまらないですものね。
ベテランクルーは観光客が行かないような、隠れた名店を結構知っています。

オーストラリアのレストランではたまげました。
だってベテランクルー達、生牡蠣を1ダースとか2ダースって注文するんですもの。
大きなお皿に盛られて出てきた牡蠣を見て納得。殻毎出てくるのです。
新鮮な牡蠣をケチャップソースで食べるのはとてもおいしかった~。

クラムチャウダーやオニオングラタンスープは日本のけんちん汁や豚汁のように
具たくさんのスープ。
フレンチトーストを初めて食べ、コーヒー(アメリカンコーヒー)は
何杯もお代りできるって知ったのはアンカレッジのホテル。

ステーキなんて日本では超がつく贅沢品だったのに、アメリカではとてもお手軽。
しかもぞうりみたいに大きいのがドカッと。
照り焼きステーキとガーリックトーストにはまったのは、ハワイのステーキハウス。
大通りからはずれた、狭い路地を入った所に、クルーがよく行く
小さな照り焼きステーキの店がありました。
色とりどりの何十種類ものアイスクリームや、ピンクのグアバジュースなるものも、
まだ日本にはなかったなあ。

ハワイではハニーデューメロンというスイカみたいな大きなメロンや
グレープフルーツを、行く度に箱で注文して日本に送ってもらっていました。
マカデミアンナッツチョコもフライトの度に買っていましたっけ。

ヨーロッパでは、いわゆるディニッシュペイストリー、クロワッサンをはじめ
甘い菓子パンが朝食についてきました。
「こんなの食べてたら太っちゃうよ~」
と思いながらも誘惑に負けていたマザーユウキです。

ロイヤルコペンの陶器やヘンケルのナイフ・フォークのセット、オロトンのバッグ、
エルメスのスカーフ、香水や化粧品。アメリカ製のふかふかタオルや
きれいな柄のシーツ、オーストラリアの羊毛の毛布、
オランダの木靴やメキシコのソンブレロなんておみやげ品も。

20代の子娘がなんとも贅沢です、ホントに。
でもね、マザーユウキはその後苦労もしていますから、
人生ちゃんとチャラになるようになってます。
まあ、苦労話はまた別の機会に。


succhi4.jpg
一番太っていた頃で、ちょっと恥ずかしいけど好きな写真なので思い切って。アムステルダムのヨーグルトのお店の前で遊んでいた男の子。あんまり可愛いので一緒にパチリ。しっかりポーズを取ってくれました。後ろで笑っているのは先輩のTさん。
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スッチーだった頃 13

13.観て、驚いて

当時、海外旅行は庶民の手が届くようになったとはいえ、まだまだ高値の花。
若い娘が旅行で行けるようなものではありませんでした。
そんな海外へ、月に何度も行くわけですから、やっぱり恵まれた仕事だったと思います。

クルーに当てがわれたホテルは決して一流ではなかったはずですが、
それでも部屋は日本のホテルのスイートルーム並みの広さで、
大抵Wサイズ位の大きさのベッドが二つあるツインルームでした。
そもそも海外のホテルには、日本のホテルのような狭いシングルルームなんてものが
ないのです。

日本ではまだ旅館が主流でしたから、まず部屋の広さ、そしてベッドの大きさに
驚いたものです。
確かに身体の大きな外国人には、日本のシングルベッドはあまりにも小さい。
シンガポールのホテルは、それこそスイートルームかと思うような
メゾネット式のバカでかい部屋。
「一人で泊まるのがもったいな~い」なんて思っていたら訪問者が・・・

「キャー! ヤモリ~~~」

当時は便数も少なかったので、ヨーロッパでは1週間以上滞在でき、
外泊こそできませんでしたが日帰り観光なら自由でした。
もっとも、あちこち観光したがるのは新人だけでしたけど。

マザーユウキの初フライト、コペンハーゲンでは、パーサーやアシスタントパーサーも
無理やり誘って、観光に連れていってもらいました。
冬のコペンハーゲンの古城は、本当に美しかったです。
有名な『人魚の像』は、海を挟んで見える景色が工場地帯みたいで、
ちょっとがっかりでしたけど。

ジャンボのフィックスメンバーとは、アラスカの氷河、アムステルダムでは
「アンネ・フランクの家」、キューケンホフのチューリップ畑、
ハーグ・スヘベニゲン(スケベニンゲンではありませんよ)の
ミニチュアランド、ベルギー・ブリュッセルの小便小僧など、
ガイドブックに載っているような所も行きました。

でも、一番衝撃的だったのは、当時まだあった『ベルリンの壁』を見に行った時。
壁の向こう、こちらから見える所に、銃を構えた兵士が立っていたのですから。
壁の向こう、すぐそこに見える建物が、まるで海を挟んでいるように遠い。
平和な日本では考えられないことでした。

ベルリンの壁が壊された時は、時の流れと時代の変化をつくづく感じたものです。


succhi3.jpg
ちょうど門のようになっているところから、向こうの建物が見えます。銃を構えた兵士が見えていた写真もあったのですが、何かで使ったのか見当たりませんでした。
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スッチーだった頃 12

12.ジャンボのフィックスクルー

当時の日本航空はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、ジャンボジェット機が
どんどん導入され、アメリカ便や北周りヨーロッパは団体旅行客も増えて
ジャンボジェットはいつも満席になっていました。
当時はまだ農業も全盛でしたから、羽ぶりの良い農協の団体もたくさんいましたねえ。

実はモックアップではなく、初めて本当のジャンボジェットに乗り込んだ時の
マザーユウキ、心の中で叫びましたよ。

「ひえー、こんなに大きいの? 本当にこれが飛ぶの?!!!」

なにせ、前から後ろまで全長68,5m、通路が二つあって、
客室部分だけでも50m以上。
50m走ができる長さなんてね。
しかも前部分は2階建て、2階はコックピット(操縦室)と
ファーストクラス専用のラウンジになっていました。

これだけでかいジャンボジェットですから、乗務するクルーの人数もDC8の倍以上。

チーフパーサー1名、パーサー2名(ファーストクラス担当とエコノミークラス担当)、
アシスタントパーサー2名、そしてスチュワードまたはスチュワーデスが
各コンパートメントに一人ずつで6~8名(正確な人数忘れちゃいました)
というチーム編成。
それにパイロットの3名が加わりますから、ちょっとした団体客並みの人数。

基本的にフライトのクルー編成は、毎回変わるのですが、ジャンボジェットは
半数のクルーが3カ月間一緒にフライトしました。
それはフィックスと呼ばれ、チーフパーサー、パーサー、アシスタントパーサー、
そしてスチュワーデス4名の編成。そのメンバーに毎回違ったクルーが
約半数参加してくるのです。

嬉しいことに、フィックスクルーになったマザーユウキは、
先輩スチュワーデス2名が同期生、マザーユウキと同期の2名
という組み合わせで飛ぶことができました。
ステイ先で同期2人づつの4人で、観光したりサイクリングをしたり、
買い物に行ったり、アムステルダムやハンブルグやアラスカで撮った写真が
残っています。
本当に楽しいステイでした。

その時は、その後起こる大きな悲劇を予想だにできませんでした。


jal3.jpg
ベルギーのブリュッセルで、左から先輩Mさん、マザーユウキ、同期Fさん、先輩Tさん。ヨーロッパは歴史を感じさせる建物がいっぱいです。
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スッチーだった頃 11

11.覚悟

マザーユウキが入社した頃の日本航空は、世界一安全な航空会社と言われていました。
外国のエアラインでは、飛行機事故が時々起こっていましたが、日本航空は、
自主運行を開始してから一度も事故を起こしていなかったからです。

それでも、飛行機事故は起こるとまず全員死亡するものだと思われていましたから、
スチュワーデスになると決めた時には、それなりの覚悟もしました。

脱出シュートを滑り降りる訓練で、マザーユウキは教官から
「お客様を助ければいいんだから、スチュワーデスは滑れなくていいよ」
と慰め?られましたが、実際、
「事故が起これば、お客様を助けて私は飛行機と共に死のう」なんて考えていました。

でも、そんな悲劇のスチュワーデス、実は脱出シュートが怖くて滑れなかったのだと
同期にバラされて、美談どころか笑い話になったりして・・・
なんて一人でオチを考えて笑っていましたけど。
訓練の時のあの恐怖の脱出シュート、マザーユウキもあの後ちゃんと滑りましたよ、
念のため。

当時から、確率的には飛行機は自動車より安全とか言われていましたが、
やはりフライトに出る時には、二度と戻れないかもしれないと
いつも考えて出かけていました。

もし、マザーユウキが飛行機事故に遭ったら、東京のアパートに
両親が荷物の整理にやってくる。
その時、「娘はこんなだらしない生活をしていたのか・・・」
なんて親を悲しませることがないようにと、部屋はきちんと片づけて
掃除をして出かけていました。
今でもその習性は残っています。

まだ20代前半でしたけど、頭の中のどこかでいつも死を覚悟していた。
大袈裟なようですけど、マザーユウキにとって、
スチュワーデスとはそんな仕事だったのです。
プロフィール

平川裕貴

Author:平川裕貴
幼児教育研究家、キッズマナーコンサルタント、マナー講師、著述家、コラムライター、英語スクール経営者

出版物
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『グローバル社会に生きる子どものための-6歳までに身に付けさせたい-しつけと習慣』(アマゾンにて販売中)
『5歳でも間に合う!わが子をバイリンガルにする方法』(彩図社)全国の書店・ネットショップで好評販売中

ママ向けサイト『ハピママ』『KIDSNA』『IT Mama』で、しつけや英語に関するコラム記事執筆

英語学習者向けサイト『Cheer up English』で子育て英語記事執筆


元日本航空CA,外資系英語スクールマネージャーを経て、1988年外国人講師による子どものための英語スクール『リリパット』を設立。
一時関西に英会話教室30教室以上を展開するが、阪神淡路大震災で被災し、規模縮小を余儀なくされる。
長年欧米文化に触れてきた経験と、震災後の長く苦しい体験から得た知恵も生かし、子ども達の長い人生を見据えた幼児教育に取り組み、現在3歳から6歳を対象とした『リトル・キンダー』という幼稚園型スクールを開校。
日々小さな子ども達に囲まれて、時には笑い転げ、時には雷を落とし、賑やかに楽しく過ごしています。

第2の人生の目標として、得てきた知恵や知識を伝えるべく、本業のスクール経営の傍ら執筆活動を開始しています。

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