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スッチーだった頃 21

21.終わりに

マザーユウキが飛んでいた1970年代は、飛行機の墜落事故とハイジャックという
航空史上最悪の出来事と、大型機がどんどん導入されJALパックなど海外旅行が
身近なものになった、航空史上もっとも華やかな出来事が交錯する不思議な、
そしてある意味激動の時代だったと言えるでしょう。

私の人生の中で、日本航空という日本のトップクラスの企業に入社できたことは、
その後の人生を大きく左右する出来事でした。
今は事情が許さないでしょうが、当時半年もの訓練期間を与えてもらえたことに、
今でもとても感謝しています。
その後経営者になったマザーユウキは、それがいかにありがたいことか
痛感することになりましたから。


私が、どこへ行っても、どんな場所でも、どんな相手とも物おじせずに振る舞えるのは、
日本航空で、社会人としてのしっかりとした基礎を作ってもらったからです。
今でも日本航空OGとしての誇りを持っています。

やがて、英語による幼児教育という今の仕事に行きつくまで、まだまだ紆余曲折が
ありますが、この時の経験がきっかけになっていると言っても過言ではありません。


半官半民でスタートした日本航空は、その後厳しい道をたどることになります。
日本航空だけではなくて、当時世界最大の航空会社だったパンナム
(パンアメリカン航空)も消滅してしまいました。
まさしく栄枯盛衰、時代は変わりました。
でも、マザーユウキの中の日本航空は、今でも鶴丸が燦然と輝く航空会社なのです。



日本航空時代のことをこんなに詳しく書いたのは初めてでしたが、書いているうちに、
引き出しの奥の方に引っ込んでいた記憶がどんどん顔を出し、
私自身懐かしく思い出に浸りながらペンを進めることができました。

個人的な古い経験談をお読みいただいてありがとうございました。
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スッチーだった頃 20

20.さらば日航

スチュワーデスになると決めて、短大に進んだマザーユウキは、
20歳で家を出て日本航空に入社しました。
日本航空の入社試験は、三次試験までありましたが、思い返せば、
合格通知はなんと電報でした。

一次試験に合格すると、電報で二次試験の日程を知らせてきました。
二次試験で合格すると三次試験の日程が。
そして、「まだか、まだか」とドキドキしながら待った三次試験の結果。
飛びあがって喜んだことを思い出します。

当時クルーは東京に住むことが条件でしたから、最初に書いたように
とりあえず蒲田の寮に入ったのです。
東京へ行く時、泣きじゃくっていた妹の姿は、今でも目に浮かびます。
マザーユウキも、飛行機事故に遭うなんてことがなくても、
もう家に帰ることはないだろう。
巣立ちする鳥のように、後戻りできない広い世界に飛び出していく気分でした。

そんなマザーユウキですが、事故やハイジャックが続き、さらに、マザーユウキが
どんどん痩せていったことで両親を心配させていることを、もはや無視することは
できなくなっていました。

図太い神経で、訓練中に4kgも太ったマザーユウキですが、
飛び始めてから2年足らずで、8kgも痩せてしまったのです。
機内では食べてすぐ動くことになりますし、不規則な生活や時差などが結構堪えます。
身体が丈夫で体力的にこの仕事が合えば、ずっと続けていたいと思える仕事でしたが、
もともとバスに乗ってもすぐに酔っていたほど、乗物に弱かったマザーユウキ。
体重が10kg減った時、退職を決意しました。


日本航空で、社会人としてのしっかりした基礎を築いてもらえたこと、
そして若くして世界を飛び回るという、普通ではできない経験をさせてもらったこと。
日本航空を離れても、この経験をぜひ活かしたいという強い思いを抱きながら、
最後のフライトを終えました。

思い返してもマザーユウキの日本航空での思い出は、楽しいことばかりでした。
ただ一つ、モスクワでの事故を除いては・・・
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スッチーだった頃 19

19.両親の不安

当時の日本航空の客室乗務員は、三つのセクターに分かれて乗務していました。
主に南周りヨーロッパを飛ぶセクター、北周りヨーロッパを飛ぶセクター、
そして主に東南アジアを飛ぶセクターで、1年毎に代わる仕組みになっていました。
ですから、言ってみれば3年働けば、日本航空のルートを全部回れるわけです。

1972年に立て続けに起こった日航機事故。
先のニューデリーの事故は、セクターが違っていましたので、
知ったクルーはいませんでした。

その後起こったモスクワの事故。
マザーユウキはモスクワ便に乗務したことはありませんが、モスクワ便は、
フライト時間が9時間以上になるので特殊な便として、もしかしたら、
各セクターからピックアップされたクルーが乗務していたかもしれません。
このあたりはよく覚えていません。

そんなモスクワ便の事故機に、1000人以上いたクルーの中で、
マザーユウキが3カ月も一緒にフライトした先輩が乗務していた・・・
このことは、マザーユウキのみならず、両親にもショックを与えました。

マザーユウキの両親は、スチュワーデスになりたいと言った時も、
表立って反対はしませんでした。
もともと子供の意思を尊重してくれる親でしたし、言っても無駄だと
わかっていたのでしょう。

でも、特に心配症の父は、小さな戦闘機ならまだしも、あんな大きな鉄の塊が
どうして空を飛べるんだ、飛行機は落ちたら最後絶対生きては帰れないぞ、
という不安はずっと持っていたようでした。
そんな不安が現実のものとなり、いつ娘の身に起こるかもしれないという危惧は、
両親の中でどんどん膨らんでいったようでした。

それでも、もちろん世界中で飛んでいる飛行機の便数から言うと、
自動車よりはるかに安全と言えます。
でも、その後も頻発するハイジャックなど両親にとっては心配の種がつきず、
心の休まらない日が続いたのです。
さらに、両親を心配させたのは、会うごとに、マザーユウキが痩せていったことでした。

ある日実家に電話したマザーユウキは、過度のストレスから、父が激しい腹痛を起こし
救急車で病院に運ばれたと知らされました。

マザーユウキの中である思いが芽生え始めました。
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スッチーだった頃 18

18.安全神話が崩れた日

忘れもしません。
1972年6月、アムステルダムのホテルに滞在中、
チーフパーサーから緊急招集がかかりました。

そんなことは滅多にありませんから、嫌な予感。
夜でしたから、みんな部屋にいて、すぐに全員が
チーフパーサーの部屋に集まりました。

そこで聞かされたのは

「日航機が事故を起こしたらしい」

というものでした。
みんなに緊張が走り、部屋の空気がピンと張りつめたのがわかりました。
「今のところわかっているのは、ニューデリーでの事故ということ」

恐らく、この時、世界中にいた日航の社員は、
同じ気持ちを味わったことでしょう。
世界一安全と言われた、日本航空の安全神話が崩れた日でした。

マザーユウキ達も、緊張と不安を抱えアムステルダムから帰国。
フィックスクルーの先輩スチュワーデスMさん、Tさんと
同期Fさんと一緒に、合同の告別式に参列しました。

「こんなの二度と嫌だね」
と先輩達と話しながら別れました。
3カ月間のフィックスが終了し、この先輩達とまた一緒に
フライトできる日を楽しみにしていました。


それから5カ月経った11月のこと。
メキシコのホテルで、またパーサーからの緊急招集。
ドキドキしながら、暗いホテルの一室で、聞かされたのはモスクワでの事故。

「わかっているのは、クルーの中にDさん、Sさん、そして
Tさんと言う名前の人がいるらしい」

DさんもSさんもマザーユウキには心当たりがありませんでした。
でも、Tさんは・・・
その時は下の名前も分からず、男性か女性かもわかりませんでしたので、
ただただあのTさんではありませんようにと祈るしかありませんでした。


日本に帰国後、新聞で知った事故の詳細。
Tさんは、ジャンボのフィックスクルーとして3カ月間一緒にフライトした
あの先輩スチュワーデス。
アムステルダムやハンブルグで一緒に遊んだ先輩。ひょうきんで楽しくやさしい先輩。

Tさんは一人っ子。しかもTさんの乗務した便が、日本に到着するはずだった日は、
Tさんのお誕生日でした。
マザーユウキのアルバムに残るTさんの笑顔。
若くしてあの世へ行ってしまったTさん。


飛行機事故は何故か続くのです。

漠然とした覚悟が、現実のものとして、マザーユウキに迫ってきた出来事でした。
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スッチーだった頃 17

17.ハイジャック

これまで楽しい思い出を語ってきましたが、私にとっても日本航空にとっても
避けては通れない大きな出来事もあります。

マザーユウキが入社する前の年1970年に,羽田から福岡に向かっていた日航機が
ハイジャックされた「よど号ハイジャック事件」がありました。
飛行機を乗っ取るという映画のような事件が、日本で実際に起こり、
この事件を機に、その後数多くのハイジャック事件が起こることになりました。

当時は、東京オリンピック、千里での万博(学生時代マザーユウキは万博で
アルバイトをしました)など日本の経済成長が著しい時代でしたが、
政治的には不安定で、この「よど号ハイジャック事件」をはじめ、
「あさま山荘事件」など、犯罪史上に残る大きな事件が起こっていました。
どちらもテレビでも実況中継されましたから、年配の方なら
記憶に残っていることでしょう。

実はマザーユウキが入社した1971年から退社するまでの間、
ハイジャック事件は立て続けに起こっています。
1972年11月には、在米日本人による「日本航空351便ハイジャック事件」、
1973年7月には、パリ発アムステルダム・アンカレッジ経由東京行きの
ジャンボ機がハイジャックされました。
これは「ドバイ日航機ハイジャック事件」と呼ばれていますが、
日本赤軍によるものでした。
乗客・乗員は全員無事解放されましたが、この飛行機は犯人によって爆破されました。
マザーユウキは、後に、この便に乗り合わせていたというスチュワーデスと
一緒にフライトをしましたが、
「本当に怖かった。もうダメかと思った」
と話していました。

その後も日本航空では、1974年の「日本航空903便ハイジャック事件」、
1979年の「日本航空112便ハイジャック事件」がありました。
また全日空でも、1970年、71年、74年、75年、77年と
ハイジャック事件が続きました。
全日空では1990年代にもハイジャックがあり、犯人と格闘した機長が殺される
という悲惨なものもありました。
そのほとんどは、政治がらみではなく、個人による犯行でした。

これらの事件の後、空港の手荷物検査が非常に厳しくなったのは、ご承知の通りです。
プロフィール

平川裕貴

Author:平川裕貴
幼児教育研究家、キッズマナーコンサルタント、マナー講師、著述家、コラムライター、英語スクール経営者

出版物
『歌で覚える英会話 キッズソング1~3』(販売終了)
『グローバル社会に生きる子どものための-6歳までに身に付けさせたい-しつけと習慣』(アマゾンにて販売中)
『5歳でも間に合う!わが子をバイリンガルにする方法』(彩図社)全国の書店・ネットショップで好評販売中

ママ向けサイト『ハピママ』『KIDSNA』『IT Mama』で、しつけや英語に関するコラム記事執筆

英語学習者向けサイト『Cheer up English』で子育て英語記事執筆


元日本航空CA,外資系英語スクールマネージャーを経て、1988年外国人講師による子どものための英語スクール『リリパット』を設立。
一時関西に英会話教室30教室以上を展開するが、阪神淡路大震災で被災し、規模縮小を余儀なくされる。
長年欧米文化に触れてきた経験と、震災後の長く苦しい体験から得た知恵も生かし、子ども達の長い人生を見据えた幼児教育に取り組み、現在3歳から6歳を対象とした『リトル・キンダー』という幼稚園型スクールを開校。
日々小さな子ども達に囲まれて、時には笑い転げ、時には雷を落とし、賑やかに楽しく過ごしています。

第2の人生の目標として、得てきた知恵や知識を伝えるべく、本業のスクール経営の傍ら執筆活動を開始しています。

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